<古代出雲王国より>
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皆さん初めまして!しまね観光大使の細木ふみです。
私は大社町の出身で、昨年には第一回大社文化観光試験にも合格しました。
今回のウェブマガジンは、歴史と情緒あふれる大社町と古代出雲歴史博物館を、ご案内いたします! ◆古代出雲大社の巨大な柱 古代出雲歴史博物館に入ると、まず最初に目に飛びこんでくるのが2000年4月に出雲大社より出土した宇豆柱(うづばしら)です。これはいにしえの出雲大社が巨大神殿であったことの裏づけになる重要な柱なんだそうです。
発見されたニュースを聞いて驚き、当時山口の大学にいたんですが、実際に大社境内の発掘現場へ見学に行きました。出雲人の血が騒いだというか…(笑)。伝説だと思われていたこんな大きな柱が実際に出てくるなんて、本当にすごいことだと感動しました。
訪れた際には、そのスケールの大きさをぜひ肌で感じてくださいね! 宇豆柱とは…
1本の柱材が直径1.35mもあるスギの大木を3本束ねたもので、太さは直径3m以上にも及ぶ。1248年(鎌倉時代)の造営時の本殿柱との説が有力説として研究されている。 ◆日本一の出雲大社に圧倒 出土した柱や伝承を元に再現された、展示の目玉の一つ、古代出雲大社10分の1スケールの模型。現在の出雲大社は高さ24mと、全国の有名神社と比べてもひときわ大きいのですが、古代にはその2倍の48mあったとする説を基に再現されたものです。しゃがんで見ると空にそびえ立つ空中神殿という感じがして、神秘的なイメージがしました。長い階段を見ると、思わず登ってみたくなりました。
模型の傍には、先回の遷宮の際にはずされた、実物の出雲大社千木が展示されています。こちらは明治から昭和にかけての出雲大社のものです。出雲大社本殿は垣に囲われているため、普段そのスケールの大きさを感じ取れないのですが、これを見るといかに出雲大社が大きな本殿かわかりますね!古代神殿とあわせて必見ですよ! 千木(ちぎ)とは…
社殿の屋根の両端の所で交差し高く突き出ている部分のことで、古代では屋根を支えるための大切な構造材でした。 しかし、現在ではほとんどの神社の千木が、一種の装飾的な意味合いの強いものとなっている。 ◆青銅王国出雲の輝き それまで全国で発見された銅剣の総数を上回る、358本という大量の銅剣が発掘されて全国を驚かせた「荒神谷遺跡」。また全国最多の銅鐸が発掘された「加茂岩倉遺跡」。黄金色に輝く青銅器をながめているだけで、神秘的な気持ちになります。 銅鐸とは…
弥生時代に釣鐘型につくられた青銅器。現在の考古学でもまだはっきりとした用途などは解明されておらず、実際に使用した、あるいは祭器として使用したなど様々な説がある。
銅剣とは…
青銅で作られた剣で、主に儀式に使用されたと考えられている。島根県簸川郡斐川町にある荒神谷遺跡では日本考古学史上最多となる358本の銅剣が発見された。 ◆古代出雲の人々の暮らし その昔、土佐国(高知県長岡郡本山町)に住む志和九郎左衛門(しわくろうざえもん)が出雲大社に病気平癒を感謝し、当時のお金を入れた小さな小舟を、自宅の前の小川(吉野川上流)より流しました。その木舟が出雲大社のある大社町稲佐の浜に漂着しました。その小さな木舟を願開舟(がんびらきぶね)と呼びます。 願開舟のエピソードを聞いて、願いは通じるんだなあと感動したので、実際に見れてとても嬉しかったです。
弦が一つしかない八雲琴。以前二胡にチャレンジしたことがあったのですが、弦2本でもかなり難しいのに、どうやって演奏してたんだろうと驚きました。どんな音色なのか聞いてみたいですね。
また、出雲国風土記に記された朝酌渡し場と市の様子など、当時の暮らしが再現されていました。古代の出会いパーティ(?)みたいなジオラマもあり、昔からこんなのがあったんだなぁ、さすが縁結びの地と感心しました!
2000年に出雲大社から巨大な柱が出土したそうです。直径1.35メートルの柱が3本束ねてあったそうです。この柱から推測するには、古代の出雲大社は高さが48メートルもあったと言われています。このような巨大建造物は縄文人が得意とするものですから、出雲人のルーツは東北に住んでいた縄文人だとする説が正しいように感じます。縄文人が建てた三内丸山遺跡と似通っていると思いました。
また、4月7日に行った荒神谷遺跡から出土した銅剣は武器ではなく、祭りの際に使われたと考えられています。縄文時代には武器がなかったと言われていますので、それも出雲が縄文だったことを裏付けているように思いました。
<三内丸山遺跡>