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業謝について 「玉響」4月号スペシャル対談  横田和典×C先生×中矢伸一

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月刊「玉響」4月号のスペシャル対談の抜粋になります。

月刊「玉響」4月号、5月号は売り切れとなったそうです。今後「玉響」を読みたいと思われる方は、下記より年間購読をお勧めします。私も12年間購読しています。

・ショップ玉響

 

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スペシャル対談 4月号

宇宙の理に通じる不思議な世界(前編)

横田和典×C先生×中矢伸一

 

今回はご紹介する横田和典さんは、不思議な人である

武術の達人であり、魂導という独自の身体技術を駆使し

「業謝」という伝説の“メグリ取り”の手法を施す

そんな横田さんの真価を見抜いたのが

高野山で修行した、知る人ぞ知る能力者のC先生

C先生によれば、横田さんの魂は、源義経だという

中身の濃い鼎談のため、前後編に分ける形でお届けする

 

「業謝」との出会い

 

中矢 今月は、「不思議の会」を主宰されている横田和典さんと、そのお知り合いで能力者のC先生をお招きました。

先日、ひふみ農園の横堀幸一さんから、とても面白い人がいるから会ってみませんか?というお話をいただいたことがきっかけで、初めて横田さんとウチの社内でお会いし、お話を伺ったわけなんですが、たしかにすごく興味深いお話だったので、今回の『玉響』での対談させて頂く運びとなりました。

まずは横田さんのご活動について、改めてお聞きしたいと思います。

 

横田 現在は月に一度、大阪で「不思議の会」という会を開いています。普段は「業謝(ごうしゃ)」という、真言密教に伝わるある業を、希望者に対して施しています。もともと業謝というのは「業捨」と書き、「業を捨てる」という字だったんですが、僕は感謝の「謝」に替えて、読みは一緒なんですけど「業謝」としています。それともう一つやっているのが、この本にも書いてある「魂導(こどう)」という身体技術です。それを東京と大阪の二ヶ所で教えさせて頂いています。

 

中矢 横田さんの書かれたこの『宇宙の魂導』という本ですね。私も読ませて頂きましたが、非常に面白かったです。これに関連していろいろお聞きしたいところもあるんですが、まずは、その業謝について詳しく伺います。業というのは、要はカルマみたいなものですか?

 

横田 そうです。僕にそれを伝授してくださったのがTという先生で、そのT先生が、空海の法力で病を治すということをされていたのです。僕がお会いした時にはもうおじいちゃんでしたが、とても不思議な方で、西も東も両方のやくざの事務所に自由に入れるという立場にいた人なんです。どうしてそういうことが出来たかというと、入れ墨を入れると肝臓を傷めてしまうという話を聞いたことはありませんか?

 

中矢 はい。よくそういうことは聞きますね。

 

横田 そうしたことを癒すために、様々な人がT先生のもとに集まって来ていたんです。それこそやくざから政治家、スポーツ選手、芸能人など。みんなT先生のいる広島に通われていたんです。T先生ご自身も、やくざみたいな、ダライ・ラマをイカツくしたような人だったんです(笑)。僕はもともとT先生から業捨を受けるつもりはなかったんですよ。僕の武術の師匠と一緒に、弘法大師を祀られているT先生のお宅を訪れたことがきっかけです。

僕は鍼灸の免許も持っていたし、東洋医学による治療もしていたので、師匠から誘われて伺っただけで、あまり興味もなかったんです。その時、T先生は、後継者がいないということをおっしゃっていたようで、師匠から話を聞いている限りでは、<業捨というそんな難しいことされているんやったら、後継者も確かにおらんやろうな>って思っていたんですけど、T先生が出された本を見つけて読んだ時に、「僕もちょっと受けてみたいな」と。「いや、これは受けなあかん」と思ったんです。

僕は、育ちは大阪ですが、生まれが沖縄なんです。沖縄には107歳になる祖母がいました。血筋はユタ(沖縄県や奄美群島の霊媒師のこと。霊的問題のアドバイス、解決を生業とする)だったんですけど、もし僕がその業捨というものを受けたら、祖母が亡くなるんじゃないかなと直感的に感じたんですが、話の流れで広島まで行ったんです。

そうしたら、初めてお会いしたT先生は、ものすごい怖い顔で、技術を盗みに来るとかそういう奴が一番嫌いやと。で、目が合った途端に、「あんた、何しにきたんや」と言われるんです。予約が取れたから来ただけなのに、いきなり「あんた、何しに来たんや」と言われても困りますよね。

僕は当時、専門学校禅林学園(旧・日本少林寺武道専門学校)っていう、専門学校の講師もしておりまして、連れて行ってくれた師匠がうちの学校の講師をしていましたので、こうこう、こういう人物なんですって説明してくれたら、やっと納得してくれました。それでその後、T先生から業捨をしてもらうと、先生はすぐに「あんた、業ないな」って言われまして。それから施術はせずに、こんこんと話を聞かされました。なぜT先生が業捨を始めるようになったのかとか、どうやってできるようになったのかとか、いろんな有名人にも業捨をやってきたけど、結局人間というのはどういうものなのかとか。そんな話を延々とされるわけです。

1時間40分ぐらいたった後に、もうあんたはできるようになってるよって言われたんです。先ほども言ったように、業捨なんて僕は全然やる気はなかったんです。しかしT先生は、これは教えて出来ることじゃないと。業捨の真似事を勝手にやっているのは何人かいると言ってましたが、そんなん許したわけでもないし、やるのやったら勝手にやってもいいと思っていると。でも、弟子として認めるほど業捨が出来ている人はいないと言っていました。

しかし、「あんたはもう出来るから、ちょっとやってみい」と。僕は早く帰りたいから適当にやったんです。その3日後に、祖母が亡くなったんです。それ以降、業捨ができるようになったんです。結局、業捨というのは、僕は宇宙教育って言っているんですけど、カリキュラムに沿ってやっていくというのではなくて、例えは悪いかも知れないですが、ウイルスみたいに、うつるもんやったんですよ。

 

中矢 何か技のようなものを教えてもらったというのじゃなくて。

 

横田 そうです。話だけ1時間40分聞かされて、もうあんた、出来るようになっているからとおっしゃったんです。その時、最後に、もしわからんことがあったら遊びにおいでって言われました。でもそれ以降、わからなかったことも、わからないこともなかったし、行くことはなかったんですよ。本当に不思議なもので。

 

自分だけでなく家族のメグリまで出る

 

 

中矢 というと、業謝というのは病気治療みたいなことも含めての施療なのでしょうか?

 

横田 そのT先生いわく、密教の行に入門しても、いろんな邪魔が入ると。もともと持っているもの、それが業というのでしょうけど、その業を取り除いて密教に入らせるというのが業捨の由来やと。でも、べつに密教に入らなくても病気が治ったりとか、意識が変わったりとか、または運勢が変わるっていうことはあると。だからみんなが求めているものは、言うたら副産物で、真言密教というのはもっと言ったら「宇宙の道」なんでしょうけど、その道に入るための入り口や、というような言い方をされていました。

たしかに僕も、それはあると思います。もともと人間には、僕が言うところの「魂の計画」というものがあると思うんですよ。そこに至るまでの余計な不純物を取り除くのが業捨なんです。だけど、そのもの自体は、おそらく敵対するものではなくて、ある意味、自分自身の意識を変えたりとか、支えていたものだと思うんです。そのT先生なんかは、「あんたこんなに悪いことしているからこんなに出るんや」みたいな言い方をされていたんです。

それから例えば、中矢先生に業謝をした時に、中矢先生の奥さまの業が出たりするわけですよ。また、今日の出来事ですが、子どもが調子悪くて受けに来たというその方は、胃かいようとかも何もないのに、業謝をしたら胃の部分がものすごく赤黒く出ると。「(ご家族に)胃の悪い方おられます?」って聞くと、「じつは・・・」ってなるわけですよ。

結局それは何かっていうと、ユング心理学でいうところの集合的無意識のように、カルマ自体もおそらく、みんなが共有しているものがあるんじゃないか。で、それは敵対するものではなくて、その人の意識自体を成長させるために必要だということで、僕は業捨の捨を、謝にしたんです。感謝の謝に。

 

中矢 横堀さんも業謝を受けたそうですが、かなり痛かったそうですね。その施術自体は、どのような感じなのですか?

 

横田 痛くはないです。痛いと錯覚するんだと思うんですよ。だってこうやってこするだけですよ。

 

中矢 なるほど、指で軽くこするだけ。見た目には痛くはなさそうですね。

 

横田 痛いわけじゃないです。実際は、皮膚を直に撫でると滑らないんで、上半身にはTシャツ1枚、足だったら薄手のストッキングの上からこすります。男性がストッキングを穿くと特殊な格好になりますけど(笑)、ストッキングは傷つかないんです。力を入れてこすれば、薄いストッキングでしたら破れたり伝線したりしますよね。でも、そうはならないです。ならないけど、皮膚が赤黒くなったりしますね。

 

中矢 それは消えるんですか?

 

横田 消えます。その色は、水分を取ってもらえば毛細血管からまた吸収されて、腎臓でろ過されて、おしっこか便で排出物として色の濃いものが出ます。

 

中矢 痛いわけじゃないけど、痛いと感じることがある?

 

横田 痛くはないと思うんですけど、痛いって言われちゃうことはよくあります。東洋医学で言うところの汚血ですね。T先生は、これは簡単に言ったらドブ掃除と一緒なんですよと言ってました。溝に汚れが溜まっているから流れない。それをかき出しているだけやと。

この業謝によく似ているもので、「刮痧(かっさ)」というものがあります。「刮痧」というのは、大陸から韓国、そして日本に伝わってきたんですけど、石を使ってやったりとか、東南アジアで言うと、銅を使ってやったりするんですよ。物を使う理由は、直接手でやると、施術者自身が業を受けるからなんです。何か物の介在がないと危険で、その物で止めてしまおうとするという技術が「刮痧」です。実際に「刮痧」を日本に持ってこられたっていう有名な方も、昨日、私のところに来られたんですけど、この施術を手でやっているというのが信じられないと言ってました。

 

誰でも出来るものではないが、横田氏は出来る

 

中矢 C先生は高野山の真言密教で修行された方ですけど、業捨というのはご存じだったんでしょうか?

 

C 聞いたことはあります。ただ、見たことはなかったですね。自分を浄化するという意味で、入る前に滝行をやったりとか、そういうのはありましたが、その中の一環として業捨というものがあるとは聞いていました。ただ、実際にそれをやっている人というのは見たことがないんです。なぜかというと、それをやる人は3年も経たずに亡くなるからです。だから、“死にたくなければやるな”という言い方になっちゃうんです。

先ほど横田先生がおっしゃったように、物を介在するやり方でも出来るんですが、そうすると、気の通りということが問題になってくる。気の通りの悪い物だと、取れないんです。逆に、気の通りのいいやり方だと、そこで止まらずに施術者の方へ来ちゃうんです。だから長く業捨をやっていると、命を削られていくんです。

そういうことがあるので、業謝のすごさっていうのは、業謝ができるかどうかっていうことじゃないと思っています。ある程度の霊能力を持っていて、ちゃんと出来さえすれば、業謝ってやれるものなんですよ。ただし、先ほどドブ掃除って言った、ドブの汚れをどこまで自分の中に取り込むかっていう、これをそっくりかぶったら、体がもたなくなっちゃいますよね。だから、手のどこかで止めるとか、それができるかどうかが、業謝をやっていいかどうかの分かれ目だと思います。

 

中矢 横田さんは、それが出来ると。

 

C はい。

 

中矢 なんで出来るんでしょうか。

 

C それはわからないです。実際に自分で自分をやったことがあるんですけど、腕のところで止まるということはなかったです。丹田に溜まっていっちゃうんです。いったん丹田に溜まると、出せないっていうか、出しにくいっていうか。それでだいたい、腎臓が駄目になるんです。横田先生の場合は、肘ぐらいのところで止まっています。いつも見ていると、その範囲で止められるっていうことのすごさというか、これがやっぱり業謝をできる、できないの差だと思っています。

 

中矢 T先生は、横田さんならできるというふうに見抜かれたんでしょうか。

 

横田 最初に思い出すのは、T先生が僕の目を見た時に、「あんたは、わしが見てきたやくざの若頭と同じ目をしている」と。どういうことなんですかって聞いたら、「あんたは、師匠がこうやって言ったら、迷いなくそのとおりやるやろう」と言われました。じつは僕、子どもの時からそういう癖があるんです。だから兄弟子なんかによく言われたのは、僕にものを言うのが怖いと。右って言われたら、もう右のことしかしない。左って言われたら左。俺はこう考えるんだけどっていうのは、一切入れない。言ってみれば、C先生が言われたみたいに、業謝はおそらく、迷いがあったら駄目だと思うんです。

 

中矢 なるほど。先ほど空海の法力というお話がありましたが、そうした力も関係しているんでしょうか?

 

C 空海の法力とは関係ないですね。空海さんっていうのは、今で言うと、人じゃない。宇宙人のように、いろんなことをやるんだけれども、人々にこれをやったらいいよって残してきているので、行とかいろいろなものがあるわけです。これが空海さんの法力というもので、空海さんしか出来ないんだったら残しても意味がないんです。誰でも出来るからということで残しているんだけど、ただ、それをやるにしても、人が選ばれるという、そういう内容もあるということですね。

だから業捨というのは、本来の形から言ったら、誰でもできることなんです、そういった意味ではね。ただし、誰でもできるんだけど、誰もがやってはいけないことなんです。選ばれた人間以外は。そうしないと、要はいくら人を助けるためだと言っても、助けたことによって自分が死んじゃったら話にならないじゃないですか。先ほど話したとおり、自分のを自分でやっている限りは影響は出ないけれども、人のをやったら、人の業を全部飲みこんじゃうわけです。

極端なことを言うと、例えば、ある人が胃がんだったとします。業捨をすればその人の胃がんは治るかもしれない。その代わり、業を取った施術者が胃がんになっちゃう。そういうことの繰り返しになるから、誰でもやっていいというふうにはなっていかないと思うんです。

空海さんだったら、当然、業捨は出来たでしょう。だから、空海の法力という言い方をしたんだと思うんですけど、ただ、それは空海さんだから出来ることであって、弟子たちに出来たかって言ったら出来ていないし、それが出来るようだったら、ずっと継承されて残されるはずです。だから言葉として、こういうことですよと、伝承としてはたくさん残っていて、その中に業捨というのがあるんですよ。ただし、それは伝承として残されているだけで、現実としてそれは残っているわけではないということなんです。

 

中矢 そもそも業謝とは、肉体的な汚血を浄化させるとともに、霊的な汚れを浄化するというイメージでしょうか? もっと言うと、自分だけではなく、自分とつながりのある家族や関係者のことも含めて、浄化していくというような。

 

C はい、そうです。

 

最後まで人生をまっとうする

 

中矢 そうしますと、業謝をやって頂くには、やっぱり横田さんのところでしか出来ないということになりますか?

 

横田 T先生から言われた限りでは、そうですね。何人か、治療と併用してされているというのは聞いたことがありますけど、それは自分なりにやられていることのようです。

今、中矢先生が言われたみたいに、家族や関係者の業を浄化していくというのは、結局、皮膚を相手にしているからなんです。どういうことかと言うと、例えば、業謝的な技術と言っても、おそらく物質的なものを媒介しているんですけど、脳と神経と皮膚というのは同じ胚から出来るんですよ。解剖学的に、または発生学的に見ても、同じものなんです。だから、皮膚を触るっていうことは、脳を触ること。脳を触るということは、意識に触れるということ。もっと言うと、顕在意識じゃなくて無意識まで触る。だから無意識の領域のものが出てくるんです。距離に関係なく人間の意識というのは全部つながっていますから。そういう意味では、自分自身が大事に思っている人のものが出るとか、気にしている人のものが出るっていうのは、至極当然のことだと思います。

 

中矢 よく遠隔治療とかありますが、業謝の場合、やっぱり直接相手に触れないといけないということでしょうか。

 

横田 例えば、自分の息子さんのために業謝を受けるという場合もあります。危篤のお母さんのために自分が、とか。そういう場合ももちろんあります。

 

中矢 重篤の場合は、その本人を連れてくるわけにはいかないですもんね。

 

横田 はい。T先生は、人の寿命というのは決まっているから、これは変えられへんって言うんです。でも、亡くなる寸前まで元気に生きることは出来ると。そこは業謝をしていて面白いところだなと思っています。

僕の経験なんですが、ある方が新潟から大阪に来られました。業謝をしてみると、胸が真っ黒になったんですよ。じつは千葉にいる義理の姉が、肺がんの末期で、ICUに入っていると。なのでもし連絡があったら、すぐにとんぼ返りで千葉に行かないといけないと言うんです。その方はすごく元気な方で、2ヶ月に1回ぐらいのペースで、メンテナンスで業を取りに来られている方なんですけど、その時は胸が真っ黒になったので、これはお義姉さん、大丈夫じゃないですかって言ったら、案の定、3週間後にICUを出られたんです。その方の旦那さんは、製薬会社のお偉いさんで、良かれと思ってガンガン抗がん剤治療をやらせていたんだけど、出られたんですよ。半年後ぐらいに退院したんです。

それから1年ぐらい経ったある日、その義姉さんが朝起きて来なくて、家族が起こしに行ったら、眠るように亡くなっていたんですよ。結局死因はわからなかったそうですが、おそらくその方は、病院に入っていても2年後には亡くなられていたんです。しかしそうやって最後まで元気に生きて、眠るように逝けたっていうのは、やっぱりその“質”だと思うんです。寿命はどうすることも出来ないけれども、そこまで生きる“質”がすごく重要だって感じました。ずっと寝たきりで生きるのか、自分自身の大事な家族のために人生を全うするのか。寿命は同じでも、全然違うんだなって思いますね。

 

業は「生きざま」である

 

中矢 なるほど、確かにそうですね。誰でも業というものは持っていると思うのですが、誰でも業謝を受けた方がよいものなのですか?

 

横田 こういう話を聞くと、みんなが受けたいって思うと思います。でも、絶対に邪魔が入ります。

 

中矢 なんかわかりますね。その人に良くなってほしくないような霊たちが邪魔することもあるでしょうし。

 

横田 はい。また、人間の潜在意識の非常に浅い部分っていうのは、変化を怖がるんです。変化を怖がるのはなぜかというと、やっぱり今を守ろうとする。「恒常性の維持」というんですけど、その力は絶対に働くと思うんです。そこを突き抜けることが出来るかどうかというのは、僕は生まれ変わりの回数やと思うんです。こんなんじゃあ飽き足らない、面白くない、もっと先に行きたいっていう人は、行くでしょうけど。

例えば、中矢先生の研究されてる日月神示でもそうですよね。その中の真理に到達しようと思ったら、おそらくかなりの回数、生まれ変わって、いろいろな経験をしないと無理だと思います。だから、こんな面白い書物があったんだっていうレベルで終わるのか、それを実践していこうと思うのかっていうのは、僕は魂の質だと思っていて。これは年齢は関係ないですね。

 

C それと、業というものを、何か悪いことのように捉えてしまっている向きがあるんだけど、業というのは、言い方を変えると「生きざま」なんですよね。それが今生きているものなのか、過去に生きたものであるのか、それとも兄弟とか、親とか知人であるとかっていう、そこの差はあると思うんですが、業そのものは、そもそも「生きざま」なんです。

だから、その人がどういう気持ちでどういうことをしているか、変な言い方だけれども、だいたい業って言うと過去の業っていうイメージですが、その過去の業っていうのは、トラウマなんです。トラウマを抱えこんで手放せなくなったのが業という形になっているんですけど、基本的に、業の中には良いものと悪いものとがあって、けっして悪いものばかりとは限らない。結局、人生の中でどういうふうに一生を全うするか、この「生きざま」というものをちゃんとするのが業謝だと思っているんです。

<転載終わり>

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 以上は月刊「玉響」4月号に掲載されています。対談の後半は5月号に載っています。後半は源義経がモンゴルに渡り、その後はドイツまで行き、没したとのことです。義経はその奥義をチンギスハーンとアングロサクソンに伝授したそうです。(残念ながら「玉響」5月号も完売とのことですが、横田和典氏の著書「宇宙の魂導」に義経について記載されています。)

 

・宇宙の魂導

 


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