スペシャル対談 5月号
宇宙の理に通じる不思議な世界(後編)
横田和典×C先生×中矢伸一
源義経の魂を持って生まれてきた横田和典氏
横田氏との出会いを通じて、能力者のC先生が
東北に逃れた義経の「その後」の足跡に迫る
義経は大陸に渡り、チンギス・ハーンの軍師になっていた!
モンゴルは義経の軍略により世界の半分を制覇
そして織田信長は、本能寺で死んだのではなく
バチカンに赴いてローマ法王になろうとし
枢機卿にまで上り詰めていた!
驚くべき真実が次々と明かされる怒涛の後編
明らかになった義経の「その後」
C 横田先生の記憶の中で一番興味を引いたのが、義経の最後のところなんです。歴史で描かれるのは、吉野で静御前と別れた後に、いきなりそこから逃避行になって、東北に行って亡くなったということになっているんですね。しかしどうしても辻褄が合わないんですよ。要するに、そこに行くまでの年数がずれているんです。
たとえば、吉野で別れてからまっすぐ東北へ行くんだったら、その年のうちか翌年には行けるわけです。ところが、そこには大きな時差があるんです。じゃあ、本当のところはどうだったんだろうと見ていった時に、最初にまず吉野で静御前と別れます。当然、静御前のことを義経は気にしていて、追われる身の自分と一緒にいると巻き込まれてしまうから、あえて離したわけなんだけれども、静御前にしてみると、捨てられたっていうことなんですよ。
結局、静御前は京都に戻っていく間に捕らえられて、鎌倉に連れて行かれるんです。静御前は白拍子(しらびょうし)(平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人)でした。この時、頼朝が静御前に、自分のために舞えと言ったら、それを断って、代わりに舞ったのが“義経恋し”という舞だった。怒った頼朝は、身籠っていた静御前の子どもが女の子だったら助けるが、男の子だったら海に沈めてしまうと告げます。結果として、生まれたのが男の子だったので、海に沈めて殺されてしまった、ということになっているんですけど、実際は殺されなかった。北条政子が、その子を不憫に思って匿ったんですよ。政子の部下のところに養子に出すという形で、ちゃんとその子は生き永らえたんです。
ただ、そのことを静御前や誰かに言ってしまうと、万が一バレた時に、後が大変なわけです。だからそれは黙っていた。結局、表向きには殺されたということになっているから、静御前は当然、意気消沈しますよね。その上、用なしということで鎌倉からも追い出されてしまう。そしてまた関西に戻ってくる。それが名古屋、正確に言うと岐阜なんですけど、そこにもう一度、義経が迎えに来るんですよ。
義経は心配しながら隠れ住んでいたのですが、そこから静御前と行動を共にするんです。その後、関ヶ原からずっと北に上って行って、敦賀に行き、敦賀から勝山に行って、それからまた岐阜に戻ってきた。そこの中居神社というところで越冬しているんです。そのことを書き遺した文書が残っており、正当なものとして確認されています。そうした文献と横田先生の記憶が一致するんですね。
義経と静御前はそのまま越冬して、飛驒高山から日本海に抜け、そのまま新潟を北に上っていくんですが、最終的に弥彦神社の手前に来たところで、産後の肥立ちが悪かった静御前は亡くなってしまうのです。この時点では、静御前と義経の2人だけです。
中矢 弁慶は、いなかったんでしょうか?
C 弁慶は、もう一人と共に奥州の平泉に行ったんですよ。頼朝に裏切られることがわかっていたから、義経が死んだことにしたんです、飛騨高山の時に。そして結局、弁慶たちも死んでしまう。
静御前もこの世を去り、弁慶もいない。周りに誰もいなくなって、これから自分はどうしたらいいかと考えた時、みんながそれだけやってくれたのに、自分が勝手に死ぬわけにいかないということで、生き永らえる選択をするんですね。これも、潔くないじゃないかとか、静御前を助けてあげられなかったという思いなど、自分の中ですごく葛藤するんです。
しかし、ここまで生かされた意味を考え、それを無駄にしないという選択をして、最終的には岩手から船に乗って、モンゴルに迎うのです。なぜモンゴルに渡ることにしたかというというと、平泉にいた時の馬術の先生がモンゴル人だったんです。その方はモンゴルと交易をしていました。そういうつながりがあったから、その先生のツテで、船に密航する形でモンゴルへ行ったのです。
中矢 そうすると、やはり義経はチンギス・ハーンになったんでしょうか。
C それは少し違います。義経はモンゴルで世話になるんですけど、やっぱり自分が生きているっていう証(あかし)を残したいというのがあったんですね。自分が今までいろいろな経験をする中で身につけた、戦術とかそういうものをやっぱり人に伝えたいし、残したい。そうするために選んだのが、その先生の息子なんです。その人物こそが、チンギス・ハーンだったのです。だから義経がチンギス・ハーンになったのではなく、その先生の息子の指南役だったのです。それを裏付ける一番の決定的理由というのが、チンギス・ハーンの戦の戦術が、義経がやっていた戦術そのものだったことです。
中矢 だからチンギス・ハーンは強かったんですね。
C そうです。チンギス・ハーンの戦術はどう考えても義経と類似する点が多くて、東北に逃れた後の義経の足跡などを考え合わせると、義経がチンギス・ハーンになったっていう話になってきますよね。しかし年齢的には40歳ぐらいの差があるんです。親と子ぐらいの差があるじゃないですか。義経はチンギス・ハーンの先生になり、最終的には軍師になっていったのです。
そしてモンゴルはどんどん勢力を伸ばしていきます。そうすると、今度は義経に対して、周囲のやっかみが出てくるんです。要するに、貴方は日本人でしょうと。モンゴル人じゃないよね。自分たちは戦ってるのに、貴方は先生で、自分たちの後ろにいる。なんでそんなに重要視されるんだと考える人が出始めた。そうした流れの中で、義経はチンギス・ハーンの子どもについたんです。それがフビライ・ハーンです。
チンギス・ハーンには子どもが4人いて、この4人が世界中に散らばっていきました。この時に「世界征服」という言葉が出てくるんです。世界征服を成し遂げたと言われる人物には、ジュリアス・シーザーだとか、いろんな人がいましたね。南下してローマ帝国までいったところで、「世界」っていうものを見た時に、最大でも4分の1、少ない時には6分の1とか8分の1しか占領していないのに、「世界征服」と言っている。
ところがチンギス・ハーンの場合は、世界の半分強を征服しました。征服者という意味では、歴史上最も征服した人なんです。その世界を子どもたちで4分割したんです。それをもう一回、一つにまとめる役を果たしたのがフビライ・ハーンです。とくにオーストリアからベルリン、今のドイツあたりを征服して、そこで生まれたのがアングロサクソンです。アングロサクソンという人種って、じつはモンゴルとの混血なんですよ。
中矢 そうなんですか!? でも見た目はどう見ても白人ですよね。
C ええ。でも元々は白人とモンゴルとの混血なんです。それまではアングロサクソンって存在しなかったんです。
中矢 白人とモンゴル人、つまりアジア人の混血が、アングロサクソンの祖先ですか。
C はい。それが中東に行くとアッシリアと言われ、アジアに行くとアーリア人と言われ、中国方面へ行くと漢民族って言われる。漢民族とは中国人じゃないんです。アングロサクソンが一番元です。じゃあ、そもそもアングロサクソンとは何かと言った時には、ドイツになるなんです。
続く・・・